物心ついた頃から、スピリチュアルな考え方は身近でした。
小さい頃から祖母とお寺参りに行ったり、神様や仏様の存在を信じていたりしていたからでしょう。
中学生までは、霊感や超能力、タロットカードに興味を持っていたことを覚えています。
しかし高校や短大へと、世界が少しずつ広がり始めると同時に、私はスピリチュアルを全面に押し出さなくなっていきます。
よくは覚えていませんが、人によっては宗教的と受け取られたり、話が合わないと言われたりしたのでしょう。
営業の仕事に就いて、すっかりスピリチュアリティを忘れていたような気がします。
32歳の頃、ヨガインストラクターの資格を取り、久々にヨガ哲学や仏教的な思想に触れます。
私が大好きだったのはこれだ!ずっとヨガをしていたい!
そう思いましたがまた仕事が忙しくなり、スピリチュアルな思考から離れていきます。
それからしばらく経った、2016年の年明けのことでした。
当時は管理職をしており、頭の中は常に仕事のことでいっぱい。
あれもこれも~しなければならない、should, should, should…
の思考が自分の中でパンクしそうな状況でした。
この年の冬休みは、いつもより多めに休めることに。
そういうタイミングがあれば必ずといっていいほど、旅行に出かけていたのですが。
この時はどうしても「寺にこもりたい」という意識が渦巻いていました。
お寺にこもったことがあるわけではありません。
でもなぜか「お寺」で、「心静かに」過ごしたいと明確に思ったのです。
そうなると禅寺で修行?
その路線で調べていたにも関わらず、ネットを見て強烈に心惹かれたのはある宿坊でした。
それは奈良県の信貴山にある「玉蔵院」です。
ネットを見ているだけで、もうそこに行って、周りの山々を眺めている気分になっている私がいます。
「ここに行こう!」と調べるのもそこそこに、すぐ電話しました。
「いつ来られますか?」
と聞かれて、
「今日か、明日はいかがでしょう」
と答えたのは、昼過ぎのこと。
電話口の方は少し微笑まれたようで、「それでは明日にしましょう」と優しく言ってくれました。
翌日行ってから分かったのですが、1泊2日の修行体験は15:00からびっしりとスケジュールが決まっています。
無謀な…
しかも宿坊に一人で泊まるなんて…怖がりな私なのに、後から考えると勇気がいります。
けれど、気が付いたらそこに居た、ぐらいの勢いでとんとん拍子に玉蔵院の修行体験をしていました(笑)。
玉蔵院は、本当に心の底から気持ちのいい空間です(((^-^)))
写経や阿息観(瞑想)、百八礼などそれぞれ違うお坊さんがやってきて、親切丁寧に教えてくださいます。
それも私たった一人のためにです。
昨日の電話で、「今日か、明日か」と言った自分が恥ずかしくなりました。
こんなに大勢の人が、ぽっと来た私のために時間を使って教えてくれるのです。
わがままで無鉄砲な自分の計画につきあってくれているありがたさを感じて、無心で取り組みました。
宿坊で一人、夜寝るのが怖くないのか考える暇もなく、ぎっしりスケジュールをこなしてクタクタの私はすぐに眠りに落ちました。
翌朝は5:00から護摩祈祷が始まります。
どの修行体験も素晴らしかったですが、この時間が私には最高に心地よかったです!
気持ちの良い読経、心が洗われるような神秘的な朝日。
祖母に連れられてよく行ったお寺の護摩を思い出していました。
掃き掃除をしながら、なんて素晴らしい時間を過ごしているのだろう!とワクワクしつつ、お坊さんたちにとってはこれが毎日続くんだという驚きでもあり。
毎日毎日、5時から読経する日々、私には到底できそうにありません。
体中が感謝感謝でいっぱいになって、心を入れ替えた頃に修行体験が終了しました。
その後かる~い気持ちで、この道はどこに行くんだろう?と登り始めたら、結構な急こう配ハイキングくらいの運動量で山頂にある空鉢護法堂(くうはつごほうどう)に到着。
これまた小学生の頃はしょっちょう山に登っていたので、楽しい感覚を思い出しつつ。
頂上には白い巳さんが祀られていて、巳年の私はまた嬉しくなりました。
※調べてみたところ、毘沙門天王のご眷属で、八大龍王の上首・難陀竜王(なんだりゅうおう)が祀られているとのことです。
「寺にこもりたい!」と強く思った私は、小さい頃から私の一部だったスピリチュアルと山登りの面白さを取り戻したのです。
再びスピリチュアルと向き合うきっかけになった日、2016年1月8日。
帰宅後も修行体験での感覚を思い起こさせたくて、それから毎日のように般若心経を唱え始めます(*´∀`)
そしてここから私の”やっぱりスピリチュアルっていいですね2016”が始まります!
次に心を大きく揺さぶられるのは、この2日後の出来事でした。
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