その日の旅の予定は、さらに小さな島へと移動する日でした。
けれどもあいにくの台風発生…(*_*)
この調子では島に渡れたとしても、フェリーの運休が続いて帰りがいつになるか分かりません。
今回は泣く泣くあきらめることにしました。
そんな急な予定変更となった日の朝です。
何度か通った弁当屋のおばちゃんが、今日は県立病院に検査入院することになったという知らせが入りました。
県立病院はちょうど私がその日に泊まる宿の近く!
おばちゃんを病院に連れていく車に私も同乗することになったのです。
この弁当屋のおばちゃんは御年80歳。
小柄で働き者のとってもかわいらしいおばちゃんで、ボリューム満点のピカイチおいしいお弁当を作ってくれます。
私の顔を見ると「あげ~、会えて幸せ~♪」とほんとに嬉しそうに喜んでくれるおばちゃんです。
ちなみに「あげ~」は驚いたときに使う奄美の方言。
おばちゃんの口癖でもあります。
1時間ほどの道中はいつも通りポジティブで朗らかなおばちゃん。
しかし病院に行くのを嫌がっていたおばちゃんは、到着した途端にシュンと沈んでしまいました。
見ていて気の毒なほどです。
入院手続きの前にPCRなど数種類の検査が必要とのこと。
検査結果が分かるまでしばらく時間がかかります。
座っているのがツライおばちゃんをベッドに寝かせてもらえるように頼み、私もおばちゃんと話しながら結果を待つことにしました。
「入院するのは嫌。今日は帰れるといいなぁ。」とおばちゃん。
さっきの入院できるかどうかの検査結果次第で、問題なければそのまま帰れると思っていたようです。
悪いところがないか調べる本番の検査は明日だから、入院はしないといけないんだよ。と説明するとものすごく悲しい顔をして遠くを見ながら「入院はイヤなのよ…お願いします、早く帰れますように。」と祈っているようでした。
その後もおばちゃんの息子さんの話や世間話を聞いていると、ふいに思い出したように「あんたにまた逢えるとは夢にも思わんかったね~。ありがとうね~」と嬉しそうに手を握ってくれます。
実はこの日、何度かこの言葉を言ってくれていて、私もそう言ってもらえることを嬉しく噛みしめつつ。
「台風が発生しなかったらおばちゃんに逢えてなかったもんね。前回の雨もおばちゃんが降らせたんじゃないかと思ってたんよ~(^O^)」と私。
というのも前回は、お弁当屋を休んで一日中寝ていると聞き、おばちゃんの顔を見に行ったときに突然のスコールに見舞われて1時間ほどおばちゃんと一緒に話をして過ごすことになったからです。
それまでは晴れていたので、たたきつけるような雨が降るとは予想だにせず!
しかも1時間経つと、さっきまでの大雨が嘘のようにカラリと晴れました。
これはきっとおばちゃんのご先祖様が降らせたに違いない、と仏壇を見ながら一人で妄想していたことをおばちゃんに打ち明け、笑いました。
そんなこんなでおばちゃんの入院手続きに付き添った日の夜。
一人になって、ふと思ったのです。
今日は自分を犠牲にせずに人のために尽くせたのかもしれない、と。
私はただそこにいただけで、おばちゃんの話を聞いただけでした。
そこには今までのような「おばちゃんの痛みをとってあげたい!」とか「おばちゃんをなんとか励ましてあげなければ!」とか、そいう感情はありませんでした。
雨になった日はおばちゃんの家で「ちょっとでも痛みが楽になれば」と思っておばちゃんの足をさすってみたりしていたのですが。
この足をさすりながら「私がおばちゃんの痛みを少しでも和らげたい。癒してあげたい。」と思っている過去の私には、少なからずエゴが混ざっていたと気がついたのです。
そもそも私にはおばちゃんの痛みを和らげることができるほどの能力もありません。
自分を過信しているのです。
そこに気づいたときに、これまでの自分の根底にある考え方自体が違っていたんだ!とハッとしました。
”マッサージやヒーリングでいろんな人を癒してあげたい”と思っていた私は「私が、私が」になっていたんだと。
言い換えれば相手のことを”癒してあげなければいけないかわいそうな人”として見ていたんだと気がついたんです。
もちろんダイレクトにそう意識していたわけではなく、”癒してあげたい”の中にそういうニュアンスが含まれているということに気づいたというか。
そのエゴが自分を犠牲にするようなシチュエーションを生み出していたんだな~という感覚をおぼろげにつかみました。
ん~、うまく伝わっているでしょうか…(∵`)
今は「なんとなくコレかも!」という感覚をつかんだだけなので、もっとはっきりと自分を犠牲にせずに人のために尽くすということが分かってきたら、またこの続きを書きたいと思います(*^^)v